2019年9月2日月曜日

18.2才児の世界

2018年8月、山口県で曽祖父宅に帰省していた2歳児が行方不明になり、3日後にボランティアの男性が発見したということがあった。そう、あのスーパーボランティアの尾畑さんのことである。
150人規模の捜索隊が2日以上探し回って見つからなかった2歳児、理稀(よしき)ちゃんを短時間で探し出した尾畑さん、その判断力と行動力が賞賛されたのは、まだ記憶に新しいところである。

警察や消防などからなる捜索隊は、主として曽祖父宅より下の方を探していたのだが、尾畑さんは「子どもはどんどん上に登っていくものだ」と、迷うことなく山道を登って行き、捜索し始めてからわずか30分ばかりで理稀ちゃんをさがしだしたという。

2歳児の理稀ちゃんは、の近くの山道を、かなり上ったところで発見された。
薄暗い沢の苔むした岩の上に、こわがりもせずに座っており、理稀ちゃんの名を呼びながら探していた尾畑さんに、「おじちゃん、ボクここ」と声をかけたそうだ。
山の中でたった一人68時間を耐えた、この2歳の理稀ちゃんの体力と豪胆さにも感嘆の声が上がった。

子どもはどんどん上に登る、豪胆、暗闇をこわがらない。
この話を聞いて、そういえばうちにも似たようなことがあった、と思い出した。

① よく歩きます


《1989年10月》  耕平1才10か月、かおる4才

耕平は、保育から帰って、ちょっとすいていたおなかに食べ物を詰め込むと、
もう「オンモ、オンモ、サンポ」とわめきます。
夕食の支度中の私があまりのうるささに音を上げて、
「ちょっとだけだからね」と外に連れ出してやるまで続きます。
外へ出ると、耕平はどんどん先に立って歩き、そのあとに私とかおるが続きます。
散歩のコースは自分で選択します。
いつも同じとは限りません。何で判断しているかはよくわかりません。
あまり遠くに行きたくない私は、「耕ちゃん、今日はこっちに行ってみようよ」と、
短いコースの方へと誘導しようとしますが、
耕平は「アッチ、アッチと」と絶対ゆずらず、どんどん歩いていくのです。
散歩は1時間近くになることがあります。
2歳児というのは、結構歩くものだとだと感心します。

こうして、雨が降らない限りほとんど毎日、夕食前に“散歩”に出かけます。
これをやらないと、なかなか夜眠らなかったり、夜中に起き出して「オンモオンモ」とわめくことになります。
先日、散歩の途中で近所の方に会ってこの話をしたら、
「あ~ら、うちの犬もそうなのよ」と言われました。

 

② 誰とでもよく話します


《1988年8月》 耕平1才8か月

耕平は散歩の途中で出会った人、出会った人にお話をしていきます。
たまには顔なじみもいますが、殆んどが初めて会った人です。
自分がはいている長靴の話をしたり、空に出ている月の話をしたり、
声をかけてくれようものなら、座り込んで話をせんばかり。
話が長くなって、いえに入ろうとしてなかなか入れなくなってしまう方もいて、
そのたびに私は謝っていますが、皆さんニコニコして相手になってくれています。
やさしい人がいっぱいいるんだなあ、って嬉しくなります。

 

③ 見知らぬ土地で一人散歩


次の記録は、夏休みを取って小諸の夫の叔母の家に行ったときのこと。
耕平は、見知らぬ土地で、一人散歩を実施。

《1988年8月 耕平1才8か月》

皆で昼の支度をしていたときだったか、気がつくと耕平がいない。
私自身初めてのところだったので、様子がわからない。
その家自体が広く、また庭も広く、裏には畑もあるというような家で、行くところがいろいろある。
敷地内にいないということがわかったのがしばらくしてからだった。 
外に探しに行ったものから、近所のTさんの家の庭先で発見したという連絡が来てヤレヤレ。
勝手にどんどん入り込んで、そこの家の方と話し込んで(?)いたという。
訪問者としてきちんと対応していただき、おやつまでいただいて帰ってきた。
それにしても、こんなに小さな子が、よくあんなところまでいったねえ。
初めての知らないところに平気でよく行くものだ、と大人たち感心。


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たかだか2才なのによくまあ、と私も始めはそう思っていたのだが、
いや2才だからこそなのだ、といまではそう思っている。

考えてみたら子どもは、もともとは何も知らなかったのだ。
母親のおなかの中から、それこそ右も左もわからない世界に生まれてきた。
でもわからないからといって、赤ん坊は不安にはならない。
赤ん坊が泣くのは不安や恐怖ではなくて、不快だからだ。
おなかがすいた、ねむい、おしっこが出る(出た?)、うんちが出る(出た?)、
あるいはどこかが痛い等々。

何もわからない世界の中で、見たり、さわったり、なめたりかじったりしながら、
少しずつわかってくるという生活をしている。
この頃やっと、少し周りの人間の言葉がわかるようになってきた。
要するに2才児は、わからないのがあたり前の世界で生活している。
だから怖がらない。

このくらいの小さな子には、大方の人が親切にしてくれる。
だから、今のところ耕平は怖いもの知らず。
怖さはこれから経験することになる。
親の本当の出番もこれから。


④ 暗闇だって怖くない


そういえば、かおるだってそうだった。
かおるが1才半ぐらいの頃、夜の公園で遊ぶのが好きだった。

夕食の後、散歩に出かける。
歩いて数分のところにある、小さな公園。
といっても近所の幼稚園の庭の倍ぐらいあって、1才半ぐらいの子どもにとってはかなり大きい。
昼間もよく遊びに行く公園で、砂場あり、ブランコあり、すべり台あり、ジャングルジムありの魅力いっぱいの公園で、近所の子どもたちがたくさん遊びに来る。

しかし、夜の公園には全く人はいない。
わずかな外灯があるばかりで、ほとんど暗闇と言ってよい。
そんな公園の中に、かおるはいつも、闇に向かって全く怖がらず入っていく。
少しあとからついていく親のことなど忘れているかのよう。

怖いという経験をしていないから、怖くないのだ。
「おばけ」などという怖いもののイメージなど持っていないから、怖くもなんともないのだ。
怖いものの経験やイメージが入ってくる前は、子どもは怖がらないのだ。

豪胆というより、怖さを知らないということなのだ。







17.これはお話なんだからね

1993年5月 耕平5才5ヵ月

『ジャンパーソンの秘密大図鑑』という本をよんでいる耕平。
ジャンパーソンというのは、今年1月から始まった特撮ヒーローもののTVドラマ「特捜ロボ・ジャンパーソン」の主人公であるロボットのこと。
耕平は「特捜ロボ・ジャンパーソン」にすっかりはまっており、ドラマが放送される日曜朝8時からの30分は彼の至福のひととき。

最近耕平は、ためておいたお年玉で『ジャンパーソンの秘密大図鑑』という本を買った。
ジャンパーソンの強固なボディや戦闘装備の数々がどういうものか、それを事細かに図解した本である。
このところ毎日、夢中で読んでいる。
そして、わかったことを私に説明する。

耕平:お母さん、ランドジェイカーって時速700キロ出るんだって。
     (ランドジェイカーというのは、ジャンパーソンが乗っている車である。)
私  :ふ~ん。
耕平:リニアモーターカーって時速何キロ? 
私  :500キロぐらいかな。
耕平:新幹線は?
私    :時速250キロぐらいだと思うよ。
耕平:ランドジェイカーは700キロだから、一番速いね。
私  :リニアモーターカーは、車体を空中に浮かばせて、抵抗をなくすから500キロも出るんだよ。
     ランドジェイカーは車なんでしょ。そんなに早く走れるわけないんじゃない?
     タイヤと道路のところで抵抗が生まれるからね。
    このスピードはちょっと現実的じゃないなあ。
    (5歳の子どもにはちょっと難しいかなと思いつつ話している私。)
耕平:でもお母さん、これはお話なんだからね。

(!!!)
話の中にのめり込んでいるわけじゃないんだ。
ちゃんと現実と虚構の世界を分離してとらえているんだね。
失礼しました!

2019年7月29日月曜日

16.初めての三段論法ほか

子育てというのは、生やさしいものではありません。
生まれたときは「健康に育ってくれさえすれば、それでいい」
などと思っていたのに、だんだんそれが揺らいでくる。
(もちろん健康に育てるだけだって大変です。)

子どもは、親の思うとおりには育ってくれません。
そう、子どもは親の思う通りには育たないものなのです。

子どもは親とだけ生活しているわけではありません。
きょうだいと遊んだり、TVを見たり、一人で遊んでいるときだってある。
それに、子どもは家の中だけにいるのではないのだから。
保育園にも行ってるし、近所のお兄ちゃんとも遊ぶ。
大家さんにおやつをもらったりもする。

子どもは、そのそれぞれの経験の中で育っていく、
そう思って子どもの成長を観察していると、なかなか面白いものです。
親の気持ちにもゆとりが生まれます。


◆初めての三段論法


食事開始から30分あまり。皿の上にはおかずがまだかなり残っています。
食べるのに飽きたのか、立ったり座ったり。そして遊んだり。

 私 「こうちゃん、ちゃんとおすわりして食べなさい!
耕平 「あのねえ、こうちゃん、ちいちゃいの」
 私 「そうね」
耕平 「だから、たべられないの」 私にすりよる耕平。
耕平 「だから・・・」
 私 「ん?」
耕平 「おかあさん、食べさせて」 私の膝の上に座り込む耕平。

耕平、いつの間に獲得したの? 三段論法!!
耕平、3才1ヵ月。


◆逆 襲


私の電卓を持ち出していたずらしている耕平に聞きました。
「ねえ、こうちゃん、何やってるの?」
耕平、こちらを見向きもせずに、そっけなく言います。
「いま、ボクおしごとしているんだから、ちょっと聞かないでね」

少し前のこと、私の仕事中に耕平があれこれ質問してうるさかったので、
「いま、お母さんお仕事してるんだから、ちょっと聞かないでね」
と言ったのを覚えていたようです。

耕平、3才6ヵ月。


◆よく見てる


家族そろって食事中のこと、ひじをついて食べるかおる。注意する夫。
「なんでいけないの?」と聞くかおる。
夫、答えにちょっと詰まる。
かおるに説明する私。マナー及び食事中の姿勢と健康との関係について。
「わかったか、かおる」と夫。
するとかおるはすかさず言う。
「お父さんは、いつも『わかったか』しか言わない」
絶句する夫。
かおる、5才8ヵ月。


   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

子どもは、身体だけでなくその内面も、日々成長しているのだなあと思います。
「親の言う通りのことしかしない子なんて面白くない」
「今日は何をしでかすだろうか」ぐらいの気持ちで見ていると、いろいろな発見があります。
親がそういう気持ちでいると、子どもものびのび行動するように感じられます。








2019年2月8日金曜日

15.こうしゅう田わ

≪1994年春≫


耕平、1年生。
今日は、「田」という字を習ってきた。
田には、「た」と「デン」という読みがある。
「デン」を使った熟語を書けという問題。
持って帰ってきたワークブックを見ると、彼が書いたのは「こうしゅう田わ」。
そこに、担任教師が大きく×をつけた。

「耕ちゃん、でんわは『田わ』じゃないんだよ。
「そうなの?」
「でんわは、『電話』って書くの。」
「ふ~ん、むずかしい。」

耕平の世界にある「デン」の音がつく言葉は、まず「電車」だ。
それから、電気、電話、電線、電信柱、電池、懐中電灯。みんな「電」だねえ。
でも、「電」の字は難しいので、1年生ではまだ習わないらしい。

子どもの世界で、「デン」という音で「田」という字を使っている言葉はあるんだろうか?
で、辞書で調べてみる。
田園、田楽、田地・・・
いや~、こんなの1ねんせいのこにわかんないでしょ。
水田、塩田、油田、炭田・・・
これも身近にないし、思いつくわけない。無理。

「耕ちゃん、これは問題が悪い。できなくてもいいわ。」

2019年1月12日土曜日

14.僕ってそういう人なの

 届いた荷物の中身を取り出した後、夫が荷物をくるんであったプチプチをつぶし始めた。
 プチプチとは、梱包材として使われている、前面に丸い気泡がびっしりと並んだポリエチレンシートのこと。正式には気泡緩衝材というそうだ。

 「僕好きなんだよね、これつぶすの。ストレス解消になるんだ」と夫。
 「へえ~、そんなにストレスたまってるようには見えないけどね」と軽口をたたいているところに、子どもたちがやってきた。
 「あ~、面白そう! やらせて、やらせて~」とかおる。小学2年生。
 「耕平もやる? 面白いよ」と夫が誘う。
 耕平はにべもなく言う。「僕はしないの」そしてつけ加えた。
 「僕ってそういう人なの」
 「・・・・・・・・・」呆然とする夫。

 「僕ってそういう人なの」
 これは、自分のことを外側から見た表現。自己を客観視していることを示す言葉である。いわゆるメタ認知。
 保育園に通っている息子に、「自分はそういうプチプチをつぶしてはしゃぐというような人間ではない」という意味合いで言われて、子どもじみた行動をしていた父親は言葉も出ない。
 子どものメタ認知能力の発見。衝撃的な出来事だった。

 2歳上の娘の場合は、こうした変化がいつごろあったのか、うかうかしていて気がつかなかった。
 メタ認知―自己を客観視するという行動、私自身がいつごろからそういうことができるようになったかということもよく覚えていないが、親が考えるよりずっと早くこどもはできるようになるということだ。
 耕平、5歳5ヵ月。保育園年長組。
 子どもの成長恐るべし!
 



2017年9月6日水曜日

13.無視されて大人になる

≪1994年6月≫


 新座に越してきてから、約2か月がたったころのこと。
 子どもたちもだんだん、この地での生活になじんできた。

毎朝、通学班8人が並んで小学校まで7~8分ほどの道のりを歩いていく。先頭が6年生、その後は年の小さい順、1年生(耕平)、2年生、3年生(かおる)、4年生2人、最後に5年生2人が続く。
 世田谷に住んでいたころの通学班は、朝登校するだけのまさに通学班だったが、こちらの通学班は放課後もよく一緒に遊ぶ、今どきでは珍しい異年齢の遊びグループだ。塾に行っている子が1人だけだったからかもしれないし、他の学区域とは交通量の多い道路を隔てて独立した区域のようになっていたからかもしれない。

遊びのリーダーは、路地をへだてたお隣の「ユウやん」5年生。登校班では2番目の年長だ。(写真では後ろから2番目)いろいろな遊びを知っていて、小さい子の面倒見がいい。塾には行っていないようで、いつもいろいろな年の子を集めて遊ぶ。最近ではあまり見かけなくなったタイプの男の子だ。引っ越してきたばかりで一番ちびの耕平も、どうやら仲間に入れてもらって遊んでいる。
 
 
 
 
6月の暑い日、耕平が家に駆け込んできて言った。「マリオのパンツある?」
マリオのパンツとは、耕平お気に入りのマリオブラザーズの柄のトランクス型の下着のことだ。最近みつけて、ファミコンゲームのマリオに熱中している耕平はきっと気に入るだろうと買ったもの。案の定、大喜びで、ズボンをはかずにパンツのままで仕事中の父親に「マリオのパンツだよ~」と見せに行ったほどである。
「おお、いいなあ。お父さんもほしいよ」などと言われてご満悦だった。それ以来、大事にはいていて、周囲の親しい人、叔母ちゃんやら年長のいとこやらに会うたびにみせびらかしていたそのパンツだ。
 
「あるよ。タンスの引き出し見てごらん」
耕平は、引出しからマリオのパンツを引っ張り出し、はき替えると再び家を飛び出していった。
どうするのかと様子を見ていると、耕平はユウやんのところに走り寄った。
そして、ズボンを少し下げてパンツを見せて、自慢そうに言った。
「これ、マリオのパンツなんだよ」
「ふ~ん」ユウやんの反応はそれだけだった。
そしてすぐ、「さあみんな○○しようぜ~」と掛け声をかけた。
 
耕平はしばらく呆然としていたが、やがて遊びの輪の中に入っていった。
 
 
 

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 小さい子どもに対して周りの大人たちは、その子のご機嫌を取りがちになる。関心を持ちそうな話をしたり、その子が話しかけてくれば、できるだけその意に添うように答えてやるといった風だ。我が家においても、少なからずそういう雰囲気があった。

ユウやんの登場は、耕平にしてみれば、カルチャーショックに近かったのではないだろうか。関心がなければ無視する、もっと言えば否定さえする人が現れたのである。耕平はこの出来事を、一体どう受け止めたのだろう。

私は、この出来事について、ついに耕平には何も聞かなかった。耕平も何も言わなかったが、この日、耕平は少しだけ大人の世界に入ったのだと思う。

 

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耕平を大人の世界に近づけてくれたユウやんは、近所の子どもたちにとって愉快なアニキだった。ユウやんの家には、近所の子がいつも出入りしており、耕平も、すっかりユウやんに傾倒していた。ユウやんと一緒だと、ただのシャボン玉遊びだって面白くなるようだった。

ユウやんが6年生になって、通学班の班長になったとき、ユウやんは通学班の集合の仕方を変更した。それまでは、ただ時間と場所を決めていただけだった。場所は我が家の前。皆揃うまで、ただバラバラと立っていた。

ユウやんは、通学班の集合を貨物列車の荷物の積み込みに見立てた。子ども一人一人の位置決めをし、順々に子どもがその場に入っていくようにした。子どもたちが、来たものから順に決められた自分の位置に並び、空いているところに後から来た子が入ってきて全員そろうと、先頭のユウやんが「出発進行!」と掛け声をかけ、車掌役のケンちゃんが「オーライ」というと、子どもたちは、列車になったつもりで行進していくのだった。
ユウやんは、学校の決まりである通学班も、愉快な遊びにしてしまったのである。
 
2年後、我が家は、道路の反対側の地区に新しく建ったマンションに引っ越し、借家生活を解消した。
ユウやんとはそれ以来会っていない。もう30歳半ば、父親になっているかもしれない。
どんな大人になっているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

2017年7月19日水曜日

12.お手伝い

≪1989年3月 : かおる3歳11か月≫ 



『お手伝い』、これが今かおるが一番気に入っている家の中での遊びです。

『お手伝い』にも『お料理』『お掃除』『お裁縫』といろいろあるのですが、一番好きなのは、『お料理』です。これは、自分の力を発揮したという実感が一番あって、なおかつ味見ができるからです。くいしん坊のかおるにとってはたまらないところです。

 かおるが一番初めにつくったのがスクランブルエッグでした。卵をかきまわして、熱くしたフライバンの中にあけ、ハシでかきまわします。あっという間に黄色くふわふわしたスクランブルエッグができました。おとうさん、おかあさんにおいしいと言われ、かおるは大満足です

 三才の子供に火を使う料理はあぶないかなと、最初は多少心配でしたが、かおるがあまりやりたいとせがむので根負けしてやらせてみたのですが、予想以上に注意深くやるのです。そして、このごろ口答えをするようになってきているかおるが、やりたい一心でかわいそうになるくらい私の言うことを素直に聞きます。

 野菜いため、ギョウザ、ヤキソバ、チヤーハン、カレーライス。
 先日はフライにも挑戦しました。魚に小麦粉をつけて卵の中にひたし、さらにバン粉をつける。それをお手伝い熱した油の中にそうっと入れる。きつね色に揚がったのを長いはしでとりだすのは少し難かしかったらしく、だいたいは私がやりましたが、ほぼ全工程にわたって手がけました。

 鍋にさわりそうになったとき、ついどなったりしましたが、かおるは面白さでいっぱいで、そんなことは少しも気にならなかったようです。
 皿に並べたフライを眺めてかおるは実に満足そうでした。
 そして、ニコニコしながらいうのです。
「いつでもお手伝いしてあげるからね」
 
 

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ここに書かれた『お手伝い』は、義務感の伴ういわゆる『お手伝い』とはちがいます。
『お手伝い』という名の遊びと言った方が良いのかもしれません。
子供にとって一番楽しいのは、自分の能力をせいいっぱい使って何かをつくりあげたという実感のあることのようです。それが『最高の遊び』なのでしょう。
かおるは今でも料理が好きで、忙しい合間にも楽しみながら作っています。(そう上手だというわけではありません。それは手本とする対象が名人というわけではなかったので、仕方のないことです。)
お手伝いということでなく、一緒に楽しくやること。家の中のいろいろな仕事を遊び感覚でやる工夫をする。これは結構手間もかかるし、注意も必要なので面倒なのですが、あるところまで行くと自分でどんどんやるようになるので、それからはずっと楽になります。料理以外ももっと力を入れるべきだった・・・、後悔先に立たずです。

 


2017年6月22日木曜日

11.人見知り

≪1989年3月≫

 耕平(1歳3か月)はあまり人見知りをしません。
 誰にでも愛想がよいのです。
 病院の待合室などで、気がつくと隣の人に「ワーワー」と話しかけていたりします。
 何気なく耕平の方を見たら、あまり耕平が笑うので、しかたなくずっとあやし続けてくれたおじいさんもいました。スーパーのレジのおばさんともすっかり仲良しです。

 正月に風邪で大熱を出して以来1カ月ほど微熱が続いたので、小児科のお医者さんに診てもらっているのですが、そこでも先生に身振り手振りで話しかけたり、看護婦さんにニコニコして手を振ったりしています。その様子を見ていた先生は、お母さん「この元気なら心配することないですよ」と薬もくれません。
 近くに小さい子どもがいようものなら、もう喜んで「ワーワー」と大声を上げながら近寄り、気安く顔をなでたり服を引っ張ったりして親愛の情を示します。

 姉のかおる(もうすぐ4歳)の同じ年頃は対照的でした。我が家から徒歩15分のところに住んでいる野方のおじいちゃんおばあちゃん(私の両親)には1週間に一度は遊びに行っていたので大丈夫だったのですが、1年に数回しか会わない祖師谷のおじいちゃんおばあちゃん(夫の両親)二は抱かれるのもいやがるぐらいでした。公園に行ってもいつも一緒に遊んでいる子どもは大丈夫ですが、見慣れぬ子がやってくるとしり込みするというふうでした。

 「同じきょうだいなのに、どうしてこんなに違うのか」なんて言葉をよく聞きますが、よく考えてみれば、親だけのところに倦まれてきた子と、上にきょうだいがいるところに生まれてきた子とでは、もう明らかにその社会環境は違います。いつも自分以外の子供がおり所で育っていく子は、子どもへの警戒心は少ないはずです。特にあおるは耕平になかなか親切でしたから、なおさらでしょう。
 耕平が生まれた頃、私たち一家は、私の実家に同居していたので、耕平の周りにはいつもおじいちゃんおばあちゃんがいました。また、歩いて12、3分のところに住んでいる私の弟一家ももよくやってきていて、従兄の龍太くん、周人くんとも顔なじみでもありました。

 その後しばらくして、夫の両親の家に近い世田谷に引っ越し、今度は祖師谷のおじいちゃんおばあちゃんのそして、夫の妹夫婦一家としょっちゅう顔を合わせるようになりました。従姉たちは二人とも10歳ほど年が上で下から、よく遊んでもらいました。
 生まれてからこのかた、耕平はいつも複数の人間がいる中で、複数の人間に世話をしてもらって育ってきたのです。

 それにくらべると、核家族で、私と二人きりの生活が多かったかおるの場合は、他人に対する免疫がなかったということでしょうか。
 かおるが人見知りをしたからといって、耕平に対して新たな対策をしたわけではありません。
 むしろ、かおるには人に慣れさせようと毎日のように連れて行った公園も、耕平の場合は忙しさにとりまぎれてあまり連れて行ってはいません。
 複数の人間の中で、その世話を受けて育つ。育つ環境のちがいで、子どもの性格・行動のしかたがこんなにも違ってくるのかと、あらためて驚かされています。どんな環境を子どもに与えてやれるか、そこに親の責任を感じます。


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 人見知りは生後4か月ぐらいから始まります。
 人見知りをするというのは、それだけ脳の働きが成長したという証拠です。
 家族のようにいつも自分の近くにいて世話をしてくれる人(=安全なもの)と、見知らぬ者(=危険かもしれないもの)との区別ができるようになるからです。
 ですから、決して困ることではなく、成長したと喜ぶべきことなのです。

 他人にいきなり抱かれて赤ちゃんが泣くのは、「いつもの人じゃない!心配だ!」と言っているのです。言葉を話せない段階の赤ちゃんのコミュニケーション手段は「笑う=快・安心」と「泣く=不快・不安」しかないのです。
 その不安を取り除かれれば、赤ちゃんは泣かなくなります。

 しばらく一緒に遊んだり、おいしいものを食べさせたり、「いないないばあ」など赤ちゃんが興味をいだくこと(例えば)をしてやったり、といったようなことがうちの子には効果がありました。
 この人は自分に「快」を与えてくれる人(→安心)、というイメージを作ってやるということだと思います。



 
 

 
 

2017年5月15日月曜日

10.オジイチャンをオジイチャンと確認するまで


かおるが一才四カ月の頃、夫の実家を私の父が訪れたことがありました。そのとき、私とかおるはたまたま夫の実家に遊びに行っていましたので、そこに私の父が訪ねてきたという形になりました。
 
 

「オジイチャンだよ 」


かおるは、応接間に野方のオジチャンの姿をみつけました。ところが、いつもすぐにオジイチャンのところにとんでいくかおるが、皆に「オジイチャンだよ」と言われても一向に近づかないのです。それどころか私の手を引っ張って茶の間に戻ってしまったのです。二、三分たって今度は、私の手を引っ張って応接間の入り口まで行きました。が、中には入りません。

しばらくオジイチャンをみていましたが、また戻ってしまいました。オジイチャンは知らぬふりで皆と話しています。何分かたってまた、私の手を引っ張って応接間の入り口まで行き、今度は少し中に入りました。しばらくしてまた茶の間に戻ります。
 
 

ほんとにオジイチャン?


 次は、応接間の中まではいりました。そしてさっきまで握りしめていたオモチャの自動車や置いてあった積木で遊びだしました。場所は先ほどより少しオジイチャンに近いところでした。そのうち、自動車がオジイチャンの足もとに行ってしまいました。かおるはオジイチャンの前を通って自動車をとりに行きましたが、オジイチャンには知らぬふりで、通り過ぎてしまいました。おやおやとみていると、次は、オジイチャンの隣りの椅子によじのばりました。そして背後の壁にかけてあるボードに色とりどりのマグネットをとったりつけたりして遊び出しました。オジイチャンの方を見るともなく見ているようです。そうしているうちマグネットが一つ、オジイチャンのところに落ちました。オジイチャンはそれを拾ってかおるに渡しました。するとかおるは、実に自然な態度で受けとり、そのままオジイチャンの膝の上に載ったのです。かおるがオジイチャンを発見してから約一時間が過ぎていました。
 
 
 

1歳児の観察行動


 部屋には夫の両親と妹たち、私の父と弟の妻子らがいましたが、この間、皆つとめて知らぬふりで特に誰も無理にかおるとオジイチャンをなじませようとはしませんでした。ですから、これはすべてかおる自身が生み出した行動といってよいでしょう。
かおるは、いるはずのない場所にオジイチャンらしき人の姿を見出しました。いつも和服を着ているオジイチャンですが、この人はグレーのスーツを着ています。この人は、本当にオジイチャンだろうか。かおるは、その人がいつものオジイチャンであるか実に用心深くさぐり、それが確かにそうであることを見きわめたとき、はじめて膝の上に乗ったのです。オジイチャンと思われる対象を、遠くから、また右から左から前から、さらに接近して見るという、その観察行動は、あたかも野生動物がはじめてのものにふれたときの行動を見るようでした。それはその場に居合せたもののほとんど共通の思いでした。

 

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このときから1年後に、この観察行動について私は、「一歳半にして、こうした観察をする方法を生み出す力が既に育っているのかと驚いた」と書いています。しかし今は、これはむしろ動物としての人間の本来の力であったのではないか、と考えています。人間は生まれたときはオッパイを飲むことと排泄することしかできません。そこから始まり、ほとんどすべてを生活し行動する中で獲得していく。まさに人間は「学習する動物」です。そのために人間の脳は、本質的に主体的に情報を取りに行くという性格(働き方)をもっています。幼い子どもが親に「あれなあに、これなあに」と聞くのはそのためです。
このときのかおるの行動もそれと同じ類型の行動だったのではなかったかと思うのです。
 本来子どもは、自分でそれが安全か否か、また何であるか、そういうことをを調べる力、調べようとする性格があるのではないか。それを大事に育ててやりたい、と考えます。あまり教えすぎ、与えすぎは、未知のものを自分で調べ切り開いていく、そういう力を子どもから奪うことになってしまうのではないか、そういう気がしています。

 

2017年3月16日木曜日

9.おじいちゃんの“まずいアメ”

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 子どもが言葉を習得していく過程は、実に発見が多く、おもしろい期間であったと思います。
 私は2人の子に、いわゆる赤ちゃん語は使いませんでした。子どもが自然に言葉を覚え使うようになる過程に興味があったからです。結果、赤ちゃんは自然と「赤ちゃん語」になるのだということがわかりました。

 たとえば、私たちは「パパ」「ママ」ではなく、「おとうさん」おかあさん」という言葉を使っていましたが、娘は2歳ぐらいまでは、父親のことを「タータ」と呼び、私のことは「アーチャン」と呼んでいました。周りの誰もその言葉は使わなかったので、娘自身が聞き取った音(おん)を、自分が表現できる音で表現した言葉だったと考えられます。
 その表現に対して、こちらは合わせることもなく、また娘の言い方を直したということはありませんでしたが、保育園に行くようになった3歳のころにはもう「おとうさん」「おかあさん」というようになっていました。

 まったくわけのわからない状態から、子どもは、生活の中で使われる言葉を繰り返し聞いて、その意味を把握し、約束事をつかみ取り、使っていきながら言葉を獲得していきます。その過程では誤用も多々あり、それが親をあわてさせたり、周囲に笑いをもたらしたり・・・


≪1989年12月~≫

 耕平(満2歳にあと少し)は、“野方のおじいちゃん”(私の父)が大好きである。
 おじいちゃんも、どこかひょうきんな耕平を大変かわいがってくれていて、枕元にいつも耕平の写真を置いている。
 おじいちゃんは病気で、近頃は奥の部屋にいつも布団が敷いてある。そしてその枕元には、おじいちゃん愛用の文房具や、眼鏡やらの必需品が置いてある。その中の一つに缶入りの浅田飴がある。青い線の入ったステンレスの丸い缶で、ミント味のアメが入ったあれだ。
 おじいちゃんは呼吸器系が弱いので、よくその缶からアメを出して口に入れている。
 耕平はそれに目をつけた。

 「それなあに?」
 「アメだよ」
 「ちょうだい」
 おじいちゃんは、まだ2歳前の耕平にはミント味は無理だと考えて言った。
 「これはね、まずいアメなんだよ」
 「ちょうだい」
 あくまで要求する耕平。
 しかたない。なめてみればわかるだろうと、おじいちゃんは一つ取出し、耕平にやる。

 ところがどっこい、耕平はその味をいたく気に入ってしまったのだ。
 一つなめ終わってしまうと、おじいちゃんにせがんだ。
 「もっと」
 「おおそうか、耕平も好きか」
 おじいちゃんは喜んで、耕平にもう一つやり、自分も一つ口に入れる。二人はアメ友達になった。

 それ以来、私が耕平を連れて実家に行くと、耕平はすぐにおじいちゃんのところに飛んでいく。そして言う。
 「“まずいアメ”ちょうだい!」
 まずいアメという名前になってしまった浅田飴。二人は一緒にアメをなめている。耕平は言う。
 「“まずいアメ”って、おいしいねえ」
 かたわらで、おばあちゃんが笑っている。
 

2017年3月14日火曜日

8.2歳児の記憶 +++

 長い実験の結果、幼児期の記憶も残せることがわかった。
 記憶を引き出し続ければ残るのである。
 「記憶」と「記憶を引き出す回路」は使い続けることによって、保持されるのである。
 「記憶」そのものは永久的に残るという説もある。ただ、それを引き出す回路は使われないと、その機能が弱まる(失われる)らしい。

 うれしかった(強い感情を伴った)経験は記憶に残りやすいということもわかった。
 (お店に注文したラーメンは、母親の作るものより、余程おいしかったようだ。)
 また、顔は記憶に残るが、名前は残りにくいらしい。
 これは、エピソード記憶と意味記憶の違いだという。エピソード記憶というのは、相手の姿かたちや自分の体験など、体感としてとらえる記憶、意味記憶は、名前、歴史、物語など文字で覚えるようなによる記憶のことである。
 エピソード記憶は本能として備わっているもので、本能というのは、脳が本来持っている人間の生存にかかわる脳の働きで、何より優先される機能である。そのためエピソード記憶の方が残りやすい構造になっていると考えられている。

 記憶は、引き出さなければ消えていく。
 (引き出しにくくなっていくと考えるべきか。一度獲得した記憶は消えない、という説もある。)
 思い出として残したいものは、引き出す行動が必要である。
 写真を見る、思い出話をするなど。だから、写真を認識する力や、記憶の内容を言葉で表現したり、聞き取ったりする力が伴っていないと、引き出すことは難しい。
 2歳だからできない、2歳半になったらできるということではなく、その子供の成長の状態による。
言葉が遅かった息子の場合は、娘が2歳半の時の域に達したのは、3歳の後半だった。
 
 さて、引き出すことによって、楽しい記憶が残せることは明らかになったが、結局のところ、夫は子どもたちをディズニーランドには連れて行かなかった。行かなかったというより、仕事が忙しくなってなかなかその時間が作れなかったのだ。(家から近かった豊島園や西武園どまりだった。)
 

≪2013年6月≫

「どうしてもディズニーランドに行きたい」と夫が言い張るので、夫の誕生日に夫婦二人でディズニーランドに行く計画を立てた。
 そのことを娘に話すと、「お母さんたちが行くなら、ディズニーシ―の方がいいよ」と言って、切符の手配から、アトラクションやショーの選択、レストランの予約まで、何から何まであレンジしてくれて、場内案内までしてくれた。待ち時間もほとんどなく、最後の水上ショーまでの一日を堪能した。
 「いつの間にか、面倒みられるようになっちゃったね」
 楽しくも、感慨深い一日だった。






 

 
 
 
 

7.2歳児の記憶

+++++

 
 娘が2歳になったころ、夫はディズニーランドに連れて行ってやりたいと言った。本当は、自分が行きたかったらしい。ディズニーは映像制作者の夫にとっては子どもの時からのあこがれの人。そのディズニーが考え出した夢の国ディズニーランドに行ってみたいのだが、いい歳の大人が一人で行くのは恥ずかしいので、娘をダシにして行く魂胆だ。
 しかい、2歳の子がディズニーランドに行って、どれほど楽しめるのか。乗れるアトラクションもまだ数えるほどだし、こんなに小さいときに連れて行っても覚えてやしない、と言って私は夫をあきらめさせた。

 だって私は、そんなに小さい時の記憶ってないわよ。
 善福寺公園(かな~)に行ったときだって、覚えているのは、父にボート漕ぎを教えてもらったこと。オールが水の上をすべってしまってほとんど進まなかったってことだけだわ。その公園に行く途中のことや、母が一緒だったかかどうかとか、お弁当を食べたのかとか、何も覚えてない。小学校1年ぐらいだってこんなものよ。
 この子はまだ2歳よ。ディズニーランドに連れて行っても、何も覚えていないんじゃつまらないじゃないの。

 では、何歳ならいいのか。
 夫を沈黙させたものの、はっきりとした答えがあるわけではない。
 楽しかった経験を思い出として残せるのはどのくらいからなのだろうか。
 子どもの時の記憶というものはどのくらい残るのだろうか。
 また、どういう記憶なら残るのだろう。
 調べることができないものか、とずっと考えていた。
 そして、半年後、偶然にその方法が示された。

≪1987年10月≫


 娘2歳半。鷺宮のアパートから引っ越して、私の実家に住むことになった。娘はそれまで毎日のように遊んでいた近所の友だちとお別れをしなければならなくなった。新しく住まいとなった私の実家の近所には、あいにく娘と同じ年頃の子どもがいなかった。家の前の道は、近くの幹線道路への抜け道となっていて、危なくて遊ばせることはできなかった。必然的に家の中での遊びがふえる。
 1週間ほどたったころ、私がアルバムに写真を整理しているのを興味深そうに見ているので、たずねてみた。

 これは誰?  「トッくんに、アキラくんに、オオノくんに、シーちゃん・・・」
 かおるはどこかな? 「ここ(黄色の福)」
 真ん中の子は?  「トッくんのお友だち」
 こっちの写真は?  「シーちゃんとトモちゃん」
 何してんの?  「お話してんの」



  自転車の練習してるの?  「うん」
  誰の自転車?  「アキラくんの」
  貸してくれたの?   「うん、のっていいって」 
  アキラくんはかおるの三輪車に乗ってるね  「うん」
  うしろ押してくれてるのは?  「ターちゃん。トモちゃんのオネエチャン」





 そのうち、写真にないことも話し出す。 
 「ガレージセールやったね」    そうだね~。トッくんのおうちのガレージでね。
 「ガレージセールのあと、ラーメン食べた」  そうだね、かおるいっぱい食べたね。 
 「おいしかったね」  みんなで食べたからね。楽しかったね。
 自分の宝もの箱から、プラスチックでできたカラフルな腕輪を大事そうに持ってきて言う。
 「サヨナラしたとき、ターちゃんがくれたんだよ」 かわいい色ね。 
 「うん、きらきらしてきれい!」

 2歳半の娘は、写真を見ると友達のことをいろいろ話し出した。記憶しているということだ。そして、話をしているうちに、関連した記憶も引き出されてくる。
 小さい時の記憶があまり残らないというのは、そのことについて思い出すということがないからなんじゃないの? もしそうなら、これを続けていけば、2歳の時の記憶だって残せるかもしれない。
 というわけで、その後しばらくの間、毎週1回はアルバムを見て、娘に写真の説明をさせるようにしてみた。そのうち、下の子が生まれ、再び引越しをし、私も仕事を開始し、娘は保育園に行くようになった。時間がとりにくくなったということもあり、だんだん飽きてきたということもありで、週1が月1となり、アルバムを開く回数は減っていった。
 小学生になると、娘は友だちづきあいやら、宿題やら、TVやらで、ますます忙しくなり、とうとう年1回の誕生日だけとなった。この日だけは、意地でもやる。「成長の過程を見る」という大義名分をもって、アルバム作戦を実施し続けた。
 そして、10年がたった・・・・・・


≪10年後≫


 娘は、写真を見ると、一緒に遊んだ子どもたちの名前が言えた。そしていろいろな出来事を思い出した。
 「ターちゃんにキラキラした腕輪もらった」「ガレージセールの後で食べたラーメンおいしかった」
 腕輪も、らーめっも写真には写っていないが覚えているのだ。うれしかった経験、おいしかった記憶、ちゃんと残っている。


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 中学、高校と進むと、娘は部活動で忙しくなった。朝練に午後練、土日も練習や試合でほとんど家にいない。アルバムなど見る暇もなくなった。誕生日の祝いでのアルバム作戦もしなくなった。そうしてまた10年がたち、娘は大学生となり、部活に、アルバイトに、勉強に(?)ますます忙しい生活を送っていた。
 ある日、たまたまアルバムを整理していたおりに娘が居合わせたので、久しぶりにアルバムを見せた。
 「覚えている?」
 「うちの前に住んでいた子だよね」 顔は覚えていた。
 「引っ越しの時、腕輪もらったんだよ」 これも覚えていた。じゃあ、名前は?
 「なんていったかな~」
 10年の空白は、名前の記憶を失わせていた。ではラーメンはどうか?
 「覚えてるよ。ガレージセールの後食べたんだよね。おいしかったなあ」








 

2017年2月15日水曜日

6.すべり台がすべれなくなった

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 かおるが初めて一人ですべり台を登り降りできたのは1才1か月のときです。まだ歩くのも上手とも言えない時期でした。
 あぶなっかしい足取りですべり台の頂上に立って笑ったりするのを見て、父親なり母親なりがすぐ近くに受け手として立ってはいたものの、そのうち足を踏み外すのではないかとハラハラしたものです。しかしかおるは、高い段の縁から自分から足を踏み出そうとはしませんでした。意外と子どもは用心深いものだと、思いました。


 
公園は歩いて数分のところだったので、毎日のように連れていってやり、1才7,8か月ともなると、もうすべり台歴半年ですから、手を離したりのめったりすることもなく、かなり上手にすべるようになりました。ところが1才9カ月になったある日、かおるはすべり台がすべれなくなっったのです。


≪1986年1月≫

★1カ月お休みしたら


 暮れから正月にかけてあわただしい日が続き、その後私が体調を崩したこともあって、1カ月ばかり公園には連れて行ってやらなかった。
 1月の暖かい日、久しぶりに公園に連れて行っってやると、かおるは大喜びで大好きなブランコのところにとんで行った。ブランコでひとしきり遊んだあと、次はすべり台。変だと思ったのは、すべり台の階段を登り始めたとき。何か手の使い方がおかしい。手すりを持ってみては離し、階段の踏板に手をかけてみてはまた手すりの方に戻したりして、なかなか登って行かない。どうも登り方がわからなくなってしまったらしい。

 そこで私が、まずここを持て、次はそこと、一つ一つ指示を出してとにかく上まで登らせた。すると今度は降りられない。頂上の手すりからすべり板の方の手すりに手を移すということがわからないらしい。手は頂上の手すりを握ったまま、身体だけすべり板の方に送ってしまうので、手すりにぶら下がったような格好になってしまう。そのうち、自分の身体が重たくなって手で支えられなくなり、ベソをかき始める始末。

 そこで今度は、すべり板への移動のしかたを指導。頂上に登ったら一回ちゃんと座って、それから手を前に伸ばしてすべり板の方の手すりをつかみ、それから身体を送り出すというように、行動に区切りをつけ、自分の行動を自覚させるようにしてやらせた。
 階段の登り方、すべり板への移動の仕方、何回も繰り返して練習させた。かおるは「ここでいい?」「ここでいい?」と聞きながら一生懸命にやるが、その日はとうとうできるようにはならなかった。



★やり方を確認しながら再挑戦


 それからしばらくの間、すべり台で遊ぶとき、かおるは「ここ? こうやるの?」と私に確かめながらやった。1週間近くも練習したころ、かおるはやっと一人ですべれるようになった。
 その後、天候が悪かったり、私が忙しかったりして、また1か月近く公園につれていってやれなかった。
 しかし、今度は大丈夫だった。かおるに「どうやるんだっけ?」と聞くと、「こうやって」とか「ここもって」などと言いながら、私に助けを求めることなく、すべり台を無事昇り降りすることができたのである。






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★できていたことができなくなるということ


 子どもの成長というものは、階段をずっと登っていくようなものだと、と思っていました。
 この「すべり台事件」は、その考えを改めさせられた出来事でした。
 できていたことが、できなくなるということもあるのです。
 これは大きな発見でした。

 しかし、できなくなったのは、ただ単純に前のやり方を忘れてしまったということではなく、子どもの成長が絡んでいたと考えています。1カ月という時間をおいてすべり台に再会した時、かおる自身が変化していたからではないかと思うのです。

 かおるの取り組んだすべり台は大きい子向けのもので、手すりの巾が広いものでした。最初の1才1カ月のときは、両手を広げて全く手は届きませんでしたから、かおるは無自覚に一方の手は手すり、もう一方の手は階段の踏板に手をかけて登ったと思います。そして、それから半年間はずっとその登り方で登っていたのです。

 ところが、できなくなったときは、いきなり両手で手すりをつかんだのです。最初の時から8か月たっており、身体も大きくなり、両手で手すりをつかめるようになっていたのです。また、観察力もついてきています。そんなかおるが久しぶりにすべり台を見て、手すりの役割を認識し両手でつかんだ。ところが、その時点でのかおるの手の長さでは、手すりを握ってしまうといっぱいいっぱいで身体を動かす余裕がなくなります。ですから、手すりを握ったそのとたんに動けなくなってしまい、混乱して、どうしてよいかわからなくなった。そんなことでなかったかと思うのです。
 成長したゆえに、行動のしかたが変わり、かえってできなくなったというわけです。

 スポーツなどでは、それまでできていたことができなくなってしまう、いわゆるスランプというものがありますが、それはこういうことであるのかもしれない、と思います。
 かおるのスランプ(?)は、自分の行動を自覚して行動するということで、脱することができました。スランプが何たるかはともかくとして、行動の自覚の重要性を認識した出来事でもありました。





 




2017年1月19日木曜日

5. 1歳児の観察力と環境設計能力

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 今回の話は、いずれも娘が1才8~9ヵ月のころのできごとです。
 子どもの行動を見ていて、人間の観察力というのは、かなり早い時期から育つ、そして観察したことから、自分で環境設計をすることも結構早くからやるのだなと感じた出来事でした。
 1才児ですから、やっていることはそうたいしたことではありません。見過ごしてしまいそうなことです。でも、ただ単純に反応するだけの行動から、明らかに、周囲の人や物を観察し、自分の次の行動を考えたり、その行動にふさわしい環境づくりをするようになってきたということがわかります。特に教えたことではないので、人間の脳の学習力が生み出した行動だと感じました。


≪1986年12月~1987年1月≫

■おばあちゃんが眠くなった時

 ある日のこと、かおるはおばあちゃん(私の母)の膝の上に乗ってお菓子を食べていました。
 テレビを見ていたおばあちゃんが、やがて居眠りを始めました。
 それに気づいたかおるが私に聞きます。
 「オバアチャン ネムイノ?」
 「そうみたいね」

すると彼女は、おばあちゃんの膝からおりて、隣りの部屋に行き、おいてあったダンボールの大箱で作った自動車をのぞきこみ、入れてあった人形をとり出しました。遊ぶのかと思って見ていると、少し抱いてからそれをおじいちゃんに渡し、ダンボールを部屋の端に寄せたのです。それから私のところへやってきて「フトン」といったのです。おばあちゃんのためにふとんを敷いてくれと言ったのです。

眠そうなおばあちゃんを見て、とっさに隣りの部屋(いつもおばあちゃんの寝る部屋です)にふとんを敷く行動イメージ(全体像)が浮び、ふとんを敷くために確保するスペースを測定し、そしてダンボールの大箱をかたづけるという行動が生まれたわけです。人形を抱いたのは、かたづけてしまわなければならないという、名残り惜しさのためだったのかもしれません。

 おじいちゃんが居眠りをしたときには、おばあちゃんのときと同様の行動をとった後、おじいちゃんのところにやってきて、「オジイチャン ネンネシテ」と、敷かれたふとんのところまでおじいちゃんを連れていき、横になったおじいちゃんのそばにすわり、「ネンネーネンネー」とおじいちゃんの身体をさするところまでやっていました。行動の一まとまりも、思った以上に大きいものでした。

 

■まず、お菓子を移動させました

 こたつの前におかれた自分の椅子に坐ってお菓子を食べていたかおる。急にお菓子の入れものを私の前に移動させました。「おかあさんにくれるの?」と聞きましたが、返事をする間もなく椅子をおりて私の膝の上にのってきました。そして再びお菓子の入れものをかかえこんで食べはじめたのです。
 自分だけ移動し、私に「お菓子をとって」とはせず、お菓子を先に移動させたということは、私の膝の上でお菓子を食べるために必要な行動についての、明確な全体像があったということではないでしょうか。
 


■鉛筆削りのとき
 おじいちゃんと一緒にお絵かきをしようとしたときのことです。使いたい色鉛筆の芯が折れていました。
 「オジイチャン エンピヨ(エンピツのこと)ケズッテ」と頼みます。
 続いておばあちゃんに「ウシサン チョーダイ」と、いつもおばあちゃんが使っている牛の形の鉛筆削りを持ってくるよう依頼、自分は削りかすを捨てるためのゴミ箱を運んできておじいちゃんのすぐ隣りにおきました。
 芯が折れたときはどうするか、そしてそのためには誰に何を頼むか、どんな場を設定することが必要か、というイメージを描いたということです。
 

■「タータ ミズ ノンデ」

 風邪をひいていた夫が、かなりひどい咳をしました。
 「タータ(オトウサンのこと)、ダイジョーブ? オクスリ ノンデ」とかおる。
 夫が風邪薬を口に含みますと、こんどは、
 「ミズ ノンデヨ」
 飲まないでいると「ミズ ノンデョッ!」とだんだん強い調子になります。夫は台所に水を飲みに行きます。かおるはついていって水を飲んだことを確認し満足の表情。そして次に、
 「タータ ネンネシテネ」

 薬は水で飲む、飲んだあとは布団に入って寝る、というのが彼女の風邪をひいたときの行動のイメージのようです。水を飲まないうち、布団で寝ないうちは、「これで、よし」とはならないのです。自分の持っている行動の全体像が満たされないと、子どもでも行動が完成していないと思うのでしょう。  いや、むしろ子どもだから、大人より厳密なのかも知れません。



4. 場のちがい、場の雰囲気をよむ


《1986年12月》



かおる1歳8カ月、食事をするときの態度が、自分の家にいるときと、おじいちゃんの家にいるときで非常に違うようになってきました。

 自分の家では、近頃はこたつの前におかれた自分の椅子にすわってスプーンとフォークで食べるという形が定着してきています。途中で歩きまわったり遊んだり、かたづけてない机の上に上ってしまったりということはなくなったのです。
 ところが、おじいちゃんの家に行くと、タタミ、コタツ、幼児用の椅子という条件は同じであるのに実に奔放になってしまうのです。これは、自分のいる場がどんな場であるか、その違いを読みとることができるようになってきたためではないかと思っています。

おじいちゃんの家には自分の家にはないおもちゃがあること、おじいちゃんはかおるがやりたがることは何でもやらせてくれること、おかあさんもおじいちゃんがいいと言ったことには反対しないといったようなことがわかってきたのです。

この場では誰がどんな役割をしているかということも読みとるようになりました。
 おかわりをするときや、食べ終って片づけるときは、おばあちゃんが主役だと読んでいます。
 「ゴツチャン(ごちそうさま)」とお茶わんを渡すのはおばあちゃんで、私やおじいちゃんが受けとろうとしても、渡そうとしないのです。

場を構成する人間の役割だけでなくその人間の能力もかなり見きわめています。
 遊びの相手になってもらうときなど、どの遊びをするかで呼びに行く相手がちがうのです。
 おじいちゃんがあぶなっかしい手つきでお手玉をやってやろうとしても、かおるはそれを見捨てておばあちゃんを呼びに行ってしまうのです。

また、このごろはその場の雰囲気を読むという能力もついてきました。
 私が夫に何か文句を言っていると、意味のわからないようなことでも、その言葉の調子で誰が誰にして怒っているかがわかるのです。そして言います。
 「タータ(オトウサン)、ダメヨッ!」 
 テレビドラマの中でも言い争っている場面には特に敏感で、「オジチャン オコッテルヨ」と深刻な顔をします。

かおるが何かこばしたりしたとき、「こぼしちゃったのね」という同じ言葉でも、私の口調のちがいで、かおるのきげんは悪くなったり良くなったりします。
 場のちがい、場の雰囲気を子供はこんなに小さい頃から読みとっているのかと思うと恐しいほどです。
 特に子供の前で争い、それもの親しいもの同士の争いほど、子供の精神を傷つけるということを感じています。


+++++


 私は、娘のかおるが生まれてから、3歳3カ月で保育園に預けるまで仕事を休みました。始めに住んでいた中野区では保育園の空きがなかったからで、やむをえずという結果ですが、約3年間を家事と育児に専念しました。しかし、この3年間ほど、人間が「育つ」ということ、「学習する」ということについて考えさせられたことはありませんでした。

子どもは毎日毎日成長していきます。0才~3才という時期、昨日できなかったことが、今日できるようになった、ということもしばしばありました。良いことも悪いこともどんどん学習していきます。私の怒ったときとそっくりの口調でかおるが怒っているのを聞いたときは、反省しながらも、まさに子どもは「育つ存在」「学習する存在」であると感心してしまいました。

2歳ほどになるとだいぶ話せるようになり、子どもの頭の働きが少しはわかるようになりました。おなかをかかえて笑ってしまうことや、なるほどと感心してしまうこともありました。
 
 子どもは私の予想よりはるかに早く、それもかなり総合的に育っていきました。
 さまざまな行動について、それはいったいどういうことなのか、どうしてそういう行動をしたのか、どうしてそういう行動ができるようになったのかを観察しては考える。
 この先どう対応してやればよいか、何を経験させてやればよいか。何をどう手伝ってやったらよいのか、あるいは手伝わない方がよいのか、試行錯誤の毎日。親になるための練習期間でもありました。
 
 


2017年1月17日火曜日

3. 卒業!「朝の泣き別れ」

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 1988年5月に世田谷に引っ越し、申請していた保育園への入園が認められました。
 働く親にとって、子どもを一日預かってくれる保育園は本当にありがたい存在です。
 しかし、子どもにとってはどうなのか?
 生まれてからずっと、大半の時間を母親である私との2人の生活を送ってきたかおる。
 3歳を過ぎてからの中途入園は、かおるにとって思いもしなかった生活の変化です。
 この変化にかおるはうまく対応できるだろうか。
 次の文章は、私が娘を保育園に預け始めてから7ヵ月ほどたった頃に、入園後の娘の変化について書いたものです。


《1989年2月》

 

★泣き別れの日々


 かおるは昨年の7月から祖師谷保育園に通い始めました。(3歳2ヵ月)
 社会運動家として有名な賀川豊彦が創立した伝統ある保育園で、現在の園長さんは敷地内の教会の牧師さん。
 最初の1か月は、かおるには苦痛であったようです。昼寝のタイミングが合わず、皆が寝静まってしまったところで、一人起きているのが何よりつらかったそうです。始めは歌を歌っていたようですが、他の子が起きてしまうからと、止められてしまったといいます。
 「どうして保育園に行かなくちゃいけないの~」
 泣き出さんばかりのかおるを自転車に乗せて、「今にきっと楽しくなるよ」「保育園に行ってよかったって思うようになるからね」と言い聞かせながら保育園に送り届け、保母さんに抱えられて泣きわめくかおるを振り切るようにして帰る日が続きました。


★2週間の夏休み


 8月に入って2週間の夏休みを取りました。保母さんたちが交代で休みを取るので、できることなら休んでほしいと園から言われている期間。「休ませると後が大変でね」と他のお母さん方は言います。しかし、かおるには少し気分転換が必要ではないかと、仕事を調整して休ませることにしました。
 そして休み明け。どうなるかと思っていましたが、かおるは全く泣かなくなっていました。保母さんも私も拍子抜けという感じでした。休み中、私が仕事(小さな映画制作会社をやっていた夫の手伝いで、シナリオ書きなどをしていました)や耕平(7ヵ月)の世話で十分遊んでやれなかったので、かおるは、バラエティに富んだ、そして1日フルに遊べる保育園の楽しさに気づいたのではないでしょうか。
 昼寝のリズムがだんだん合ってきたのも良かったのかもしれません。


★そしてその後・・・


 9月になると、迎えに行ってもすぐ飛んで来なくなりました。「もう少し遊んでいってもいい?」
 10月、「もう少し遅くお迎えに来てもいいよ。」
 11月のある日、迎えに行くと、仲良しのリサちゃんとランドセルを背負っていったり来たりしているところでした。。そして不服そうな声で言いました。
 「もう少し遅くきてくれればいいのに。今学校ごっこやっていたのよ!」「・・・・・」

 そしてそれからさらに3か月が過ぎた今のかおる。
 「今日はタテワリなんだよ。お買いものごっこやるんだって」などと、毎日何をやるか楽しみにして保育園に行っています。
 「タテワリ」というのは、年齢の異なる子どもたちをまぜてクラスを作り活動する縦割り活動のことで、かおるの通う祖師谷保育園は、自主的な行動力と他を助ける心を育てるという方針から縦割り活動が多いのです。劇遊びや楽器遊び、すもう大会やかるた大会をやったり、散歩にも行きます。年長の子が運転手や車掌役をつとめる“乳母車バス”に、小さい子が切符を買ってお客さんになる乗り物ごっこもなかなか楽しいようです。
 そうして遊ぶので、年長組の子も年少組の子もお互いに顔や名前を知っており、かおるも帰り際に年長さんから「かおるちゃんバイバイ」などと声をかけられうれしそうです。

 また園には、スカート、カバン類、風呂敷、エプロン、組み立てブロックなど、種類ごとに分類されて入った引き出しがあって、おやつの後の時間、子どもたちはそこから思い思いのものを取り出して遊びます。迎えに行くといつも、風呂敷をなびかせたアンパンマンやら仮面ライダー、何人もの白雪姫たちが部屋の中を右往左往しています。かおるもよく長いスカートを引きずって歩いています。

 そう、かおるはもう完全に、朝の泣き別れは卒業したのです。


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 朝の泣き別れ、通い初めにはどの子にも多かれ少なくともあると言う。長時間泣いている子、すぐ泣きやんでしまう子、泣き別れが長く続く子、すぐ泣かなくなってしまう子などさまざまだそうだ。これは、子どもの年齢や家庭での生活の仕方などいろいろなことが関係しているようです。
 子どもの泣き別れは、安全なところから離されたということからおこる防衛本能だと考えられています。保育園では朝の儀式と呼んでいました。あって当たり前のことで、むしろ泣かない子の方が心配だそうです。泣いているのは「お母さん好きだよ~、おうちの方がいいよ~」と言われているのだと考えればよいというのが、主任保母さんの言。
 ん? じゃあ、泣かなくなったということは・・・・・

 今から20年数年前当時、保育園に子どもを預けるということを、親の義務を怠っていると批判する人々が少なくありませんでした。(今でもいるかもしれない) しかし、家にいたのでは、これだけ多様な行動プログラムや。異年齢(0~6才)の友達、障がいのある子(園には常時何人かいました)、保育士さんや給食のおばさんたちといったいろいろな人間のいる社会生活を経験させてやることはできません。
 かおるは保育園生活で、適度に親離れをし、生活習慣においても、友達づきあいにも急速な成長を見せました。そして何より、そこでの生活を楽しんでいました。これはもう何をか言わんやです。








 

2016年9月27日火曜日

2. ピーマン大作戦

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 何でも食べられることが、健康の第一条件。何ができなくても、食べものの好き嫌いのない子に育てよう、と考えていました。夫も同じ考え。夫も私も好き嫌いは無く、残さず食べるというのがモットーです。苦手のものは、大人になってもなかなか食べられず苦労するもので、私の母はシイタケと牡蠣が嫌いだったし、弟も牡蠣が嫌いでなかなか食べられませんでした。姉は未だに肉が嫌いでほとんど食べません。
好き、きらいができるのは、脳の中の扁桃体の働きによるものです。人類の脳には、本能的に生きていた時代の原始的な脳の部分「古い脳」と、人類のその長い進化の過程の中で新たに発達してきた部分「新しい脳」とがあります。「古い脳」といわれるのは、主として生命維持のために働くもので、扁桃体は古い脳に属し、快・不快をつかさどる。自分にとって快(おいしい、心地よい)であることは安全、不快(まずい、不愉快)なことは危険と判断し、より快の方向に行動するように仕向ける働きをするのです。
  「きらい」を「好き」にするということは、この扁桃体との戦いなのです。
 
 
 

1988年6月 かおる3歳3か月

 

 かおるはピーマンが苦手。7月の保育園入園はもう2週間後だ。
 入る前に何とかこのピーマンぎらいを克服しよう。どういう作戦にするか。
  見える形で好きにしなければ、嫌いを克服したことにならない。細かく切ってわからなくするとか、何かにくるんで見えなくするということでなく、ピーマンをピーマンと認識させて食べさせたい。

ピーマン嫌いの子に、ピーマンと認識させて食べさせるにはどうするか。どんな条件が必要か。
  まず、第一は、おなかが空いているときに食べさせるということ。
 とすると、遊んでおなかが空いている夕食前か?

  第二に、ピーマンしかないという条件にするのはどうだ。いろいろあると選べるので、自分のペースで食べ、苦手のピーマンを後回しにして、最後にピーマンが残ってしまう。
 しかし、いくらお腹が空いていたからと言って、ピーマンはピーマンだ。ピーマンの味が嫌いな子に、普通のピーマン料理を出したって食べないだろう。ではどうするか。

 第三の条件は、ピーマンの味が抵抗にならないようにすること。
 炒め物はダメだ。ピーマンの味が際立ってしまう。
 最初はなるべく気にならないようにする必要がある。
 衣でくるむか? てんぷらはどうだ?
 うまく揚げる自信がない。ではフライは? いいかも知れない。
揚げ立てなら衣がカリカリして美味しいと思うかもしれない。しかし、衣でくるんでしまっては、なんだかわからないではないか。
 ピーマンだとわかるようにするためにはどうするか。
 自分で、衣をつけて作ったらどうだ。それなら、ピーマンだということが明らかだ。よし、それで行こう。
 
 「フライをつくるのよ。手伝ってね」
 「うん」かおるは、前から料理をやってみたかったと嬉しそう。
 「エプロンしてきてね」「はーい」
 その間に、中華鍋に油を入れ、ガスに点火。縦に四つ割りにしたピーマンを4個、小麦粉をまぶす。
 卵をボールの中に割りほぐし、パン粉をバットの中に準備する。
 
 エプロンをつけたかおる、「何するの?」
 「おかあさんが卵をつけたピーマンをパン粉の中に入れるから、パン粉をこういう風につけてちょうだい」
 やって見せながら、説明。
 
 パン粉の中に、卵をつけたピーマンを入れていくと、小さな手で一生懸命パン粉をつける。
 「つけ終わったよ」
 「ありがと。じゃあ、これから揚げるからね。見ててね」
 椅子の上に立たせて、中華鍋が見えるようにしてやる。
 
 
 ピーマンが、あっという間にきつね色に上がる。
 「ほら、もうできた」「早いね」
 「食べてみる?」「うん」
 
 「熱いから、ちょっとさましてからね。」「もういい?」「そうね」
 「どう」「おいしい! おかあさん、ピーマンフライっておいしいね」「そう、よかった」
 
 「もっと食べる?」「うん!」
 「じゃあ、今度は自分で入れてごらん」「うん!」
 「お鍋のふちからそうっと滑らすように入れてね。ゆっくりでいいよ。」
 
 緊張しながら、ピーマンを入れるかおる。
 「うん、それでいい。かおる上手だよ。」うれしそうなかおる。
 「ほら、もういい色になった。ハイ、かおるの作ったピーマンフライだよ。」
 
 作戦終了。要したのは、ほぼ1時間。
 ピーマン嫌い、即日解消!
 

   +++++

 
 ピーマン大作戦の効果には、実施した私自身が本当に驚きました。
 「まずい」と思っているピーマンを「おいしい」と感じるようになったのは、自分で作ったこと、それが楽しかったこと、そしてできたての一番おいしいときに食べたことが、かおるにとっては「快」だったのです。
 つまり、「ピーマンフライづくり=快=ピーマン好き」となった、ということなのです。
 
 「ピーマン大作戦」は、見事、かおるの扁桃体に勝利。
 「きらい」を「好き」に変える、この一手。
この作戦にはその後、思わぬ発展がありました。
このとき以来、かおるはお手伝い(特に、料理のお手伝い)が大好きになり、手早くやりたいときには悩ましいほど、お手伝いをしたがるようになってしまったのです。