2017年1月19日木曜日

4. 場のちがい、場の雰囲気をよむ


198612月》



かおる1歳8カ月、食事をするときの態度が、自分の家にいるときと、おじいちゃんの家にいるときで非常に違うようになってきました。

 自分の家では、近頃はこたつの前におかれた自分の椅子にすわってスプーンとフォークで食べるという形が定着してきています。途中で歩きまわったり遊んだり、かたづけてない机の上に上ってしまったりということはなくなったのです。
 ところが、おじいちゃんの家に行くと、タタミ、コタツ、幼児用の椅子という条件は同じであるのに実に奔放になってしまうのです。これは、自分のいる場がどんな場であるか、その違いを読みとることができるようになってきたためではないかと思っています。

おじいちゃんの家には自分の家にはないおもちゃがあること、おじいちゃんはかおるがやりたがることは何でもやらせてくれること、おかあさんもおじいちゃんがいいと言ったことには反対しないといったようなことがわかってきたのです。

この場では誰がどんな役割をしているかということも読みとるようになりました。
 おかわりをするときや、食べ終って片づけるときは、おばあちゃんが主役だと読んでいます。
 「ゴツチャン(ごちそうさま)」とお茶わんを渡すのはおばあちゃんで、私やおじいちゃんが受けとろうとしても、渡そうとしないのです。

場を構成する人間の役割だけでなくその人間の能力もかなり見きわめています。
 遊びの相手になってもらうときなど、どの遊びをするかで呼びに行く相手がちがうのです。
 おじいちゃんがあぶなっかしい手つきでお手玉をやってやろうとしても、かおるはそれを見捨てておばあちゃんを呼びに行ってしまうのです。

また、このごろはその場の雰囲気を読むという能力もついてきました。
 私が夫に何か文句を言っていると、意味のわからないようなことでも、その言葉の調子で誰が誰にして怒っているかがわかるのです。そして言います。
 「タータ(オトウサン)、ダメヨッ!」 
 テレビドラマの中でも言い争っている場面には特に敏感で、「オジチャン オコッテルヨ」と深刻な顔をします。

かおるが何かこばしたりしたとき、「こぼしちゃったのね」という同じ言葉でも、私の口調のちがいで、かおるのきげんは悪くなったり良くなったりします。
 場のちがい、場の雰囲気を子供はこんなに小さい頃から読みとっているのかと思うと恐しいほどです。
 特に子供の前で争い、それもの親しいもの同士の争いほど、子供の精神を傷つけるということを感じています。


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 私は、娘のかおるが生まれてから、3歳3カ月で保育園に預けるまで仕事を休みました。始めに住んでいた中野区では保育園の空きがなかったからで、やむをえずという結果ですが、約3年間を家事と育児に専念しました。しかし、この3年間ほど、人間が「育つ」ということ、「学習する」ということについて考えさせられたことはありませんでした。

子どもは毎日毎日成長していきます。0才~3才という時期、昨日できなかったことが、今日できるようになった、ということもしばしばありました。良いことも悪いこともどんどん学習していきます。私の怒ったときとそっくりの口調でかおるが怒っているのを聞いたときは、反省しながらも、まさに子どもは「育つ存在」「学習する存在」であると感心してしまいました。

2歳ほどになるとだいぶ話せるようになり、子どもの頭の働きが少しはわかるようになりました。おなかをかかえて笑ってしまうことや、なるほどと感心してしまうこともありました。
 
 子どもは私の予想よりはるかに早く、それもかなり総合的に育っていきました。
 さまざまな行動について、それはいったいどういうことなのか、どうしてそういう行動をしたのか、どうしてそういう行動ができるようになったのかを観察しては考える。
 この先どう対応してやればよいか、何を経験させてやればよいか。何をどう手伝ってやったらよいのか、あるいは手伝わない方がよいのか、試行錯誤の毎日。親になるための練習期間でもありました。
 
 


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